■人権問題研究室室報第27号 (2001年7月発行)

人権問題研究室開設25周年記念
国際シンポジウムに向けて

小川 悟(文学部名誉教授)

中国広西民族学院玄関と学院生
中国広西民族学院
玄関と学院生
   『民族と国家を超えてー国際化時代における人権ー』が、今回のシンポ ジウムのテーマである。人権問題研究室が創設されて、すでに25年の歳 月を経た。各研究員の研究成果も上がり、内容的にも充実が見られること はまことに喜ばしいことではある。特に昨今、人権問題が国際的な視野で 論じられる傾向が強まって来たことは、25周年記念の中でも特記さるべ きであろう。当初人種・民族問題研究班が創設された頃は、未だ人権問題 の国際化にかんする積極的な論議はなかった。率直にいって、研究員の中 に国際化という視点がなかったからだともいえるが、むしろ研究の方法が 見いだせなかったからであろうか。
 部落問題研究室として出発した本研究室は、当初は部落問題の範疇の中 で大きな成果を上げてきたが、部落問題が国際的な研究分野で学問的普遍 牲を獲得するのは容易なことではなかった。しかし、今や人権論ないし人 権学ともいえる領域において、部落問題もたんなる「問題論」の中で収斂 されることなく、人権研究を核とした新しい学問分野において日本の文化 的特性との関連で研究されることになりつつある。しかし、研究が「研究 室」の中での学問的探索で終始することは、当然のことながら私たちの望 むところではない。これらの研究が、遂には日本の、あるいは世界の人権 のための活動に資すべく実り豊かな内実をつくらなければならない。今日 ようやく、吉田室長を始めとして、研究員がヨーロッパにおいて講演やゼ ミナールを通して人権問題の国際化を具体的に展開するに至った。そのひ とつの結果が、今回のシンポジウムである。ドイツ、韓国、中国から講師 を招き、2日にわたってシンポジウムを開催する運びとなった。内容的に は、まことに興味深いシンポジウムになることだろう。
 20世紀は人権の時代でめるといわれてきた。人権にかんしていうならば 、21世紀は、20世紀を継承している。各地域における紛争は、多くの 難民を生み出している。難民は、人間として存在するための重要な支柱で ある人権を阻害されている。あるいは、政治的機能が、人間を疎外し、人 権を蹂躙している。複雑な政治的・社会的状況の中で、まさしく人権が粉 砕されている。こういう例を、私たちは日常的に見聞している。民族と国 家を超えた地平を、私たちは切り拓かなければならない。民族と国家を超 えることは、今日重要な埋念である。この理念を具現化するために、われ われは多くの問題に遭遇する。これらの問題は、おそらく「人権」問題の 範疇の中で把えられるのではないだろうか。いまだに、地球上においては 紛争や戦争が絶えない。紛争や戦争の原因は、宗教的な、あるいは民族的 な矛盾であることが多い。あるいは、大国による利権擁護の場合もあるだ ろう。人々は、それこそいかなる矛盾も問題も知らぬ気に戦っている。報 復に次ぐ報復が行われる。そこには、人が人として生きる権利の保証など ない。
 人権の世紀とはいわれながら、人権無視の状況がこの地球上のあらゆると ころで見られる。人権思想は、本来国家的かつ政治的範疇を超えるもので ある。いわゆる国家の政治的営為の中で、人権はしばしば損なわれる。そ の例を、われわれは多く知っている。しばしば、人権問題は、国家的・民 族的主張と衝突する。        
昌慶宮、弘化門、朝鮮(1616)、再建、<br>
ソウル市鐘路区
昌慶宮、弘化門、朝鮮(1616)、再建、
ソウル市鐘路区
また、しばしば、それぞれの「国民」は、「国家や 「民族」という概念によって、あたかも自らの存在が証明されているかの ごとき錯覚を抱くことがある。本来、「人間」の前では、「国家」や「民 族」はイリュージョンに過ぎない。戦争は、このイリユージョンによる国 家間の自己主張の結果である。「国民」という人間集団の意識に、「国家 」はこのイリュージョンを植え付ける。かつて、地球上の人間は、さまざ  まな愚行を繰り返して来た。それらの愚行は、たんに愚行ということでは 済まされない行為を引き起こして来た。それらの行為の前では、誰もが「 人権」という言葉の持つ意味も知らなかったし、またこういう言葉そのも のがおそらく政治的にも社会的にも何らの有効性を持たなかったのであろ う。
 もう今から24、5年も前になるだ ろうか。ある小さな組織(差別とたた かう文化会議)で、人権と環境にかんする議論が行われたことがある。こ の議論は、未だに私の記憶の中に留まっている。今や、環境問題は、人類 に突き付けられた人類自身が解決しなけれならない大きな課題となってい る。人権問題と環境問題は、われわれの責任において解決しなければなら ない課題である。この両者の問題は、国境を越え国家を越えて私たちに追 って来る。また、人間を人間たらしめている言語の問題も看過できない。 言語はたんなるコミュニケーションの手段ではなく、人権間題とのかかわ りにおいていうならば、優れて文化的概念である。言語問題も、このシン ポシウムでひとつの柱になっていることは注目に値いするだろう。シンポ ジウムの成功を祈る。
△ 頁頭に戻る

アジア人はいるのか
 ―国際シンポジウムの「プログラム」 (予定)について―

梁 永 厚(委嘱研究員)

 来る9月に開くことになる本研究室の開設25周年記念シンポジウムには 、ドイツ、中国、韓国の先生方がおみえになる。そこで思うに、国民のい ない国家はありえないが、国家を超えて統合的なヨーロッパ人のヨーロッ パ、アジア人のアジアというものもあることに間違いない。しかし歴史を ふり返ると、ヨーロッパ人と称した人物とか、評された人物は確かに実在 したし、現存もするが、日本人、中国人、韓国人……アジア諸国の国民を 超えて、アジア人と称した人物とか評された人物が、はたしていたのかと なると、明快な答をだしえないと思うのである。
       
朝鮮王朝建築物、<br>
   昌徳宮仁政殿<br>
  朝鮮(1804)再建、<br>ソウル市鐘路区
朝鮮王朝建築物、昌徳宮仁政殿
 朝鮮(1804)再建、ソウル市鐘路区
   ヨーロッパの実例をあげると、平和主義者として優れた人物評論、短編小 説、回想記を遺したオーストリアのユダヤ系作家シュテフアン・ツワイク (1881―1942)は、『昨日の世界』という回想記を書き遺して、 妻とともに自決をしたが、同回想記の副題には「ヨーロッパ人の回想」と ある。ツワイクは自らヨーロッパ人と称し、オーストリアという国家を超 えたヨーロッパ的伝統と文化の美質に惹かれ、人間および生の総体を描く べく苦闘したと回想している。
また第2次大戦後、ヨーロッパ統合の土台 をつくったといえるデ・カスペリー(1881ー1954)、ロベール・ シユーマン(1886ー1967)コンラード・アデナウアー(1876 −1967)らが、他界したとき、ヨーロッパ各国の新聞は、これらの政 治家を立派なイタリア人、立派なフランス人、立派なドイツ人であると同 時に、立派なヨーロッパ人であったと追悼した。なお対独戦争を指導した イギリスのウイルソン・チヤーチル(1874ー1965)、フランスの シャルル・ド・ゴール(1890ー1970)らが他界したとき、ヨーロ ッパの各紙は大戦時の同盟関係を越えて、ともども故人を立派なヨーロッ パ人として称えていた。
さらに1985年の第2次大戦終結40周年を迎 えたとき、当時の西ドイツでは5月8日の敗戦の日に際して、R・フォン ・ヴァイツゼッカー大統領が、連邦議会で感動的な名演説を行っている。 同演説では1945年の敗戦の痛みをかみしめながら、1933年のナチ ス執権当時を想起しつつ、ドイツ人がなめた苦難と、ドイツ人によってア ウシユビッツなど、ヨーロッパ各地で強いられた苦痛と災難を忘れてはな らない。そして国境が互いを分け隔てるものでなくなっているようなヨー ロッパ大陸、すべての民族にたいする正義と人権の上に立って平和を希求 しようと語り、最後は「今日5月8日にさいし、能うかぎり真実を直視し よう」と結んでいる。
       
広西民族学院附属幼稚園児と教員
広西民族学院附属幼稚園児と教員
ひるがえってアジアでは、日本近代のアジア政策に よる侵略の後遺症が、まだ十分に癒されていないためにアジア人のアジア という認識は、育たずにきている。いわば明治10年代の「欧化主義」に 反対する政治運動と結ばれて興った「亜細亜民族興隆(大アジア主義)」 という独善的な朝鮮、および大陸への侵略活動は、大正時代を経て昭和の 15年戦争期に至ると、東北アジアから東南アジアにかけて、軍事、経 済、文化の運命共同体を形成し、アジアの生存と発展を期そう、という美名 の「大東亜共栄圏」をめざし、太平洋戦争へと拡大させた。そして日本は 敗戦を迎えたのである。しかも第2次大戦後においては、広島、長崎の痛 みは語りつづけても、日本の侵略によって犠牲にされたl,000万人に のぼるアジア隣国人の痛みには、あまり関心を寄せようとしない。アジア 人はまだいないのか、アジアとは一つの虚構にすぎないのだろうか。
 さて昨 今の日本では、「国民幻想」を煽るいわば古くからの国民統合技術への回 帰を活発化させ、かつ一方においては頻りに地球化(グローバリゼーショ ン)が語られている。「国民幻想」への回帰は、国旗、国歌の法制化、「 第三国人」排斥論、教科書間題、靖国神社参拝問題等々、多様な問題をも って進められており、あたかも「日本人が一丸となれば」すべての問題は 解消される。という情緒へ収斂させようとするものである。また地球化に おいて、現在国境を軽々と越えているのは国際資本の活動といったところ で、国家を単位とする国際関係の枠組は、なかなか変わろうとしていない。
       
民族学院内の各民族文字で書かれた標語
民族学院内の各民族文字で書かれた標語
   では今日求められているのは何であり、どんな理想をもって生きていけ ばよいのであろうか、まずは古い国民主義への回帰ではなく、民族(国民) の伝統的な土壌に、平和、人権、共生の文化を築いていく、という民族( 国民)的アイデンティティの確立と、民族(国民)と国家を越えた活発な 相互交流を通して、あたらしいインターナショナリズムの道を拓いていく ことにあるのではと考える。        
2001年3月、アイヌ民族
に関する調査出張 <br>における小川、梁 委嘱研究員
2001年3月、アイヌ民族 に関する調査出張
における小川、梁 委嘱研究員
   
△ 頁頭に戻る

新研究員紹介

大島吉晴(関西大学人権問題研究室委嘱研究員)

 「先生、どの結果が正しいんですか?」心身障害児の知能発達検査の結果 についての保護者からの質問。最近の障害児たちは複数の医療機関、地域 保健機関でみて貰っていることが多い。同種の見立てでも結果の解釈や表 現が様々。保護者が記載する市販の発達質問紙もいろいろ。思いあまった 保護者からの質問。小職も心理士。あなたならどう答えますか?
まず、保 護者の想いをしっかり聴きますよね。その後の小職の答え。「全て正しい ですよ。もしこの子の手元に文字盤もコミュニケーション・エイドもなか ったら、彼は人にコミュニケするすべがない。でもこういう補助具があれ ば、彼は周囲とコミュニケできる。もし裸の状態で彼が置かれたとして何 が出来るかと考えると、こっちの結果でしょ。でももし補助具や自助具が 彼の手足や口の一つと考えると、もう一つの結果でしょ。更に周囲の人た ちの気持ちや態度が伴う時、伴わない時も考えると、彼に何が出来るかも っと変わってくるでしょ。もし車椅子で電車やバスに乗ろうとしたとき、 乗りやすい設備があれば彼は交通機関を利用できる。もし周囲が彼を理解 し歩み寄ってくれる気持ちがあるなら、彼の頼みに耳を貸し代わりに切符 の販売機を利用してくれる。町内や駅、公共の場所の設備や設定如何でも 彼のなし得ることは変わってくるでしょ。検査はあくまで道具であり手段 ですよ。彼が今何につまづき、何に秀でており、どういう努力や問題解決 をするか、また周囲の人や物がどうあれば彼は力を発揮出来るか。それを 考えるのが目的ですよ・・・・・・」
 如何でしたか?  あなたはどう思いますか?
 そうそうここは新人紹介の場でしたね。本年度から人権問題研究室委嘱研 究員となりました。専門は心理学系で、京都府立医科大学精神医学教室に て研修を行いつつ、これまでに精神科領域、心身障害者のリハビリテーシ ョン領域の臨床心埋士を経て、現在は心身障害児の療育活動に携わってお ります。一つの領域に没入するというより「何でも屋さん」になるんでし ょうか。老人、成人、児童、精神障害、知的障害、身体障害、感覚障害な ど様々な対象児者と、肌で接する日々を送ってきました。一人ひとりへの 援助の為にはその周囲の人の物の見方や考え方、組織、制度、設備の状態 など大切な要素となります。本研究室にて人権の視点からも大いに深めて いきたいと存じます。
△ 頁頭に戻る

書 評

ジプシー −シンティ・ロマの抑圧の軌跡− 小川 悟・著
『ジプシー』 −シンティ・ロマの抑圧の軌跡−
(関西大学出版部、2001年2月刊)

浜本隆志(文学部教授)

 小川悟先生はすでに、『ジプシー・抑圧と迫害の歴史』(明石書店)と『 ナチス時代のジプシー』(明石書店)を出版されている。いわば先生は、 日本の「ジプシー」研究の第一人者として、これまで体系的に「ジプシー 」差別の歴史を掘り起こしてこられた。今回紹介する『ジプシー』もその 系譜に属するものである。
 たしかに従来、「ジプシー」については日本でも、リスト、シューマン、 ビゼーなどの音楽を通じ、異国情緒豊かな流浪の民として、ロマンティッ クな「ジプシー」像が紹介されてきた。しかし実際に、日本では「ジプシ ー」がいなかったので、その虚像が先行し、実像はほとんど知られないま まであった。小川先生の本書は、このような「ジプシー」の虚像を払拭し 、「ジプシー」の実像を具体的に提示するものであるといえよう。
 まず本書は、前半部において、「ジプシー」の流浪の歴史をたどっている。「ジ プシー」の祖先は北インドに住んでいたとされ、かれらはイスラム教徒の 侵入により、流浪の旅を余儀なくされた。その後、ペルシャ、アルメニア 、ギリシャをへて、13ー14世紀ごろ南スラヴ地方へ移動するのである が、本書ではとくに東欧のルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、ポーラ ンドの「ジプシー」の歴史が研究対象とされている。「ジプシー」の多く は、行商、鍛冶職、鋳掛け、薬売り、馬の売買、占いなどを生業としてい たが、定住者から差別されて農奴や奴隷としても働かされた。
 とくに本書では、17世紀の30年戦争時代における「ジプシー」の実態について一 章を割いている。まずこの時代では、ツンフトと「ジプシー」との関係や 、「ジプシー」の傭兵の問題が採り上げられている。まず「ジプシー」の 生業がツンフトと競合し、「ジプシー」の熟練した技術が脅威であったの で、ツンフトはかれらを排除した事実がある。 また当時の領主にとっては、傭兵が不可欠であって、「ジプシー」もその 一員となり、各地を転戦した。しかし諸侯は、この「戦争協力者」に対し ても、戦争が終われば苛酷な迫害を加えた。
 たしかに啓蒙君主のマリア・テレージアやヨーゼフ二世などは、「ジプ シー」の同化政策を実施しようとした。これは歴史的には画期的なもので あったが、実際には「ジプシー」文化を無視した非現実的なものであっ た。たとえば、「ジプシー」の子どもが2歳になると、キリスト教徒の代 父母に預けなければならないという点に、強引な同化政策の典型例があら われている。結局、このような試みは、みじめな失敗に終わるのである。
 さて本書の圧巻は、ナチス時代における「ジプシー」迫害の歴史の 検証である。人種主義を唱えるナチスが、ユダヤ人を虐殺したことはよく 知られているが、同じく「ジプシー」を強制収容所に送り、ユダヤ人と同 様に虐殺したことは、最近、ようやく知られるようになってきた。ナチス はドイツ国内はいうにおよばず、占領し、進駐すると、ユダヤ人と「ジプ シー」の摘発に着手している。とりわけ、ドイツ警察長官に任じられたハ インリヒ・ヒムラーは、病的な「ジプシー」狩りをおこなった。こうして 「血統主義」にもとづき、「ジプシー」は断種され、生体実験材料にされ たり、戦争遂行のための強制労働に従事させられ、必要がなくなればガス 室で殺されたりした。
 小川先生は強制収容所における虐待の実情を、多くの資料や証言を紹介 しつつ、生々しく再現している。なお、ナチス統治時代に殺された「ジプ シー」の数は、データーによると、ユーゴスラヴィア:90,000人、 ルーマニア:36,000人、ソ連:35,000人、ポーランド:35 ,000人、ハンガリー:28,000人、フランス:15,550人、 ドイツ:15,000人、オーストリア:6,800人、ボヘミア:6, 500人など、その他の国も合わせて、277,200人である。さらに 未発掘の資料分を合わせると、その数は500,000人にものぼるとい われている。
 本書は次のような言葉で締めくくられている。「ナチスの人種主義によ るこの悪逆無道は、たんに狂気と言うことだけでは説明できないものであ る。強制収容所は、ある意味では『人間』の象徴である。それがドイツ人 であったにせよ、強制収容所は『人間』の所産であった。このことを、わ れわれは考えねばならない。」
 小川先生は昨年、アウシュヴィッツ・ビルケナウやダッハウ強制収容所 跡を訪れ、歴史的な現場を追体験しているが、それが本書を執筆する際の エネルギーとなったことであろう。本書には、ナチスの蛮行に対する怒り とともに、理不尽に殺された「ジプシー」に対する追悼と、鎮魂の祈りが 込められている。是非、一読をお勧めする次第である。  
 
 △ 頁頭に戻る
 
 

編 集 後 記

鳥井克之(外国語教育研究機構教授)

 まず最初に訃報を記さねばならない。マスメディアを通じて部落問題に取 り組まれ、本研究室の中核的研究員であられた社会学部・田宮武教授が今 年5月初旬に急逝されたことである。次号室報に田宮教授を追悼する文を 掲載する予定である。今はただ冥福を祈るのみ。
 今秋9月22・23日両 日開催の国際シンポジウムのために、小川・梁両委嘱研究員の文章を掲載 した。研究室のこれまでの取り組みとシンポジウム後の方向を小川氏が論 じ、梁氏は何故に「アジア人」という語が「ヨーロッパ人」と対応して在 存しない点に論及している。
 多忙な浜本文学部長の書評寄稿に感謝する。研究室の事務の川本氏の配慮 によりカラ一写真11枚を組版したので、いささかなりとも眼福となれば 幸甚。  
△ 頁頭に戻る