■人権問題研究室室報第25号
 (2000年7月発行)
アウシュビッツ収容所正門にて
アウシュビッツ収容所正門にて

アウシュビッツ紀行

吉田徳夫(法学部教授)

 今春、小川悟先生を団長とする一週間ほどの私的なドイツ・ポ−ランド旅行の企画があった。案内役を買っていただいた本学の講師シュピーゲル先生以下、私と、人権間題研究室員の梁永厚先生が同行し、総勢7人の旅行団である。行く先はポーランドのアウシュビッツ収容所とドイツのダッハウ収容所である。
 近年、ユダヤ人問題に関して、ユダヤ人を虐殺したガス室はなかったとか、収容所でのユダヤ人の死因はチフス等の感染病であるなどと主張する文献が日本でも刊行され、注目を浴びたことがある。日本と同様にいわゆる歴史の見直し論が盛んな中で、ナチズムを肯定する思想がヨーロッパ各地でも主張され、我々が訪欧した直前にもオーストリアではナチズムに肯定的な政党が政権の一角に収まるという問題が生じたり、チェコのある自治体ではシンテイ・ロマに対して、治安維持の関心に立った隔離施策が行われ、E.U.が弾劾を加える等の新開報道があった。
 歴史の見直し論が欧州だけの問題ではなく、日本にもこの問題がある。ユダヤ人問題に相当する日本での問題は、南京事件を代表とする日本軍による大量虐殺事件があげられるが、国内問題やナショナリズムの観点からすれば、在日外国人問題や部落問題がそれに相当すると思う。最近では東京都知事が外国人労働者を標的とする治安関心を示し、いかにも差別的な「三国人」発言をおこなった事は注目される。
 
アウシュビッツ収容所の建築群
アウシュビッツ収容所の建築群
 アウシュビッツを訪れる前に、旧ワルシャワ城内にあるワルシャワ歴史博物館を訪れた。1939年にナチスがポーランド侵攻を始めた頃の写真が数多く展示されていた。その中でも、ナチスがユダヤ人を白昼街頭で捕らえ、生き埋めにし、また虐殺されたユダヤ人の側をポーランド婦人が見知らぬ顔で通り過
監視塔からみるビルケナウ収容所
監視塔からみるビルケナウ収容所
ぎている光景が写された残虐な写真が目についた。次にアウシュビッツを訪れた。アウシュビッツはユダヤ人にとってはホロコーストの象徴的な施設である。訪れた時にも、ナチスによる虐殺への抗議の意思表明であろう、ユダヤ人と思われる一団がイスラエル国旗を背中に纏い集団で見学に来ていた。
 アウシュビッツを訪れて改めて驚かされたのは、アウシュビッツ以外の収容所も同様であるが、収容所に隔離されたのはユダヤ人だけではなく、ポーランドの政治犯、教会関係者が収容され、収容所内部でもユダヤ人とは別に隔離され、各々別に死刑の執行装置も設置されていた。そこには今も花束が供えられていた。
ビルケナウス収容所の引込線とプラットホーム
ビルケナウス収容所の引込線とプラットホーム
 隣に設置されたビルケナウ収容所には今もなおナチスによって破壊されたガス室が残っていた。現地に居住されポーランド文学を研究されている中谷氏の説明に依れば、ビルケナウ収容所に連れてこられたユダヤ人達は、周辺を花園で飾られたプラットホームに降りに降りると、その場所で労働に耐えるか否かを検査し、労働に耐え得ないユダヤ人を直ちにプラットホームの横に設けられたガス室に送ったという。労働に耐え得るとは言っても、収容所に飾られたユダヤ人の遺影を見ていると、収容所に来てから約2、3ケ月でなくなっている。中には人体実験に供された子供の遺影もあった。
 アウシュビッツから車で2時間の所にクラコフという町があり、我々はそこを宿泊の地とした。同都市はポ−ランドの中世都市であり、戦争で破壊された様子はなく、落ち着いたたたずまいを残している。都市の広場には大きな教会が建っており、若い女性がひざまづいて礼拝をする等、日本の寺院と違って多くの人々の敬虔な信仰を集めている様子が窺えた。その街の一郭にはユダヤ人街、ゲットーの壁の一部が残っているが、民主化以後、亡命していたユダヤ人がクラコフに戻りつつあるという。近年映画化された『シンドラーのリスト』でクラコフは著名になり、その撮影現場も訪れることが出来た。旧ユダヤ人街の中に、今日もユダヤ人のレストランが開業しており、同所でロシア系ユダヤ人であろう、彼らの奏する元気なユダヤ音楽も楽しむことが出来た。
クラコフに残るユダヤ人街、ゲットーの壁
クラコフに残るユダヤ人街、ゲットーの壁
   クラコフからミュンヘンへ移動して、アイヒマンが勤務した所でもあるダッハウ収容所へ出かけた。同収容所は、今日のドイツでは反ナチズムの教育機関として大事な役割を果たし、多くのドイツ人が訪れている。小川先生の話に依れば、同収容所はユダヤ人を選別して各地の収容所に送る重要な機能を持っていたと言い、同先生が30余年前に訪れたときと比較して、収容所の建築群も非常に綺麗
アウシュビッツ収容所 ユダヤ人の抗議の意思を込めた見学集団
アウシュピッツ収容所
 ユダヤ人の抗議の意思を込めた見学集団
に整備されているという。中でも同収容所にあったはずのガス室が今日撤去されていると指摘された。その指摘は大事である。アウシュビッツが現状保存に努めていることと比較して、ダッハウは改変の跡が顕著である。それはアウシュビッツが国立博物 館として保存されている事と対比すれば、ダッハウが教育機関になってしまっている所に両施設の相違が生まれる原因であろう。
 E.U.統合を目前に、昨今のドイツは大きな変貌を遂げつつある。日本と同様に、第二次世界大戦以後、奇跡的な経済復興を成し遂げたドイツは多くの外国人労働者を受け入れ、トルコ人を含めて、彼等にドイツ国籍を与える国籍法の改正を行った。国簿の出生地主義から生地主義へ変更するというものである。ドイツ人は従来フォルクという言葉を好んだが、今後はこうした言葉も死語となる可能性があり、ドイツ・レジデント、ドイツ住民の用語が用いられることになろう。反ナチズムの政府の取組は世論は大きく揺らしたと聞くが、それはドイツ民族主義への反省を伴ったものであると思量される。日本も、こうした民族主義的見解が一部の政治勢力だけの問題ではなく、日本政府自身にも存在することは明らかである。その事は或いは教育基本法の見直し論の法制化や君が代・日の丸、日本に於ける外国人処遇問題に端的に現れている。外国人であれ、国民であれ、政府の施策が自由主義ではないイデオロギ−や治安維持に偏って行われるとすれば、日本の人権状況は危ういものとなる。
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新研究員紹介

市川訓敏(法学部教授)

  人権問題研究室の人種・民族問題研究班が、沖縄問題にかかわる共同研究者を募集しておられたことから、今回意を決して研究員に加えていただいた。
 沖縄問題への関心は、私の大学院時代にまでさかのぼる。それは、たまたま大阪のある古書店の片隅に、琉球関係の法制にかかわる稿本を見つけたことがきっかけである。崎浜秀明氏の編集で出された『沖縄旧法制史料集成』と題する全5巻のガリ板刷りの稿本は、今も大切に保管しているが、一字一字ていねいに刻まれた手書きの稿本を見ていると、崎浜氏ら沖縄の研究者の熱意がそのまま伝わってきて、私にさらなる研究をうながしているように思えた。当時、その関係の文献を意識的に集めたが、その頃に島尾ミホという奄美出身の詩人の詩集を読む機会があり、私の南島への既成観念が壊れるようなショックを受けた。ミホ氏は、『死の刺』などで知られる文学者島尾敏雄氏の夫人であり、この夫婦のかかわり方が、島尾文学の重要な柱になっていることは、後で知った。
 資料収集が高じて沖縄にも行き、目の真上をアメリカ軍の戦闘機や爆撃機が轟音をたてて飛び立つ様と、あくまでも美しい沖縄の平和な海との落差のために、非日常の世界に立っているような奇妙な感覚に襲われながら、沖縄の人々の運命を考えたこともあった。
 その後、自分の仕事に埋没して、沖縄のことを考える時間は少なくなっていったが、沖縄出身の歴史学者安良城盛昭氏が、沖縄は日本を相対化する独特な地域であり、沖縄を知るためには、日本が見えていなければならず、日本がよく見えるためには、沖縄を深く知っていなければならないという趣旨の発言をされていることを自分なりに考えていた。研究員に加えていただいて、長年の宿題に取り組みたい気持でいっぱいである。

宇佐美幸彦(文学部教授)

 ジルヒャーの作曲で日本でも親しまれている「ローレライ」の歌は、詩人ハインリヒ・ハイネの作詞ですが、ナチスの時代には、ハイネがユダヤ人であったため、「作者不詳」とされたそうです。ヒトラーの政府は反ナチス的な内容の書物や、ユダヤ系の著者が書いた書物を、ヒトラー青年団の学生たちを使って、大学の図書館や研究室などからすべて持ち出して、ベルリンのオペラハウスの前で、見せしめのための「焚書」を行いました。しかしユダヤ人ハイネの書いた「ローレライ」 は、ドイツ人の心の中にいわばドイツの「民謡」として定着しており、ヒトラーの独裁政治もこの作品そのものを抹殺することはできなかったのです。このことは、作家がアーリア人かユダヤ人かを基準にして芸術作品を評価しようとしたナチスの文化政策がいかに矛盾に満ちたものであるかを示しているといえますし、また同時に、ナチスのような凶暴な独裁政治をも生き抜くことのできる芸術作品の不朽性を、物語るものであるということができます。
 ドイツ文学の歴史の中で、このような民族や人種を軸にした興味深い事例がいろいろとあります。3年ほど前にディーター.ブロイアー著『ドイツの文芸検閲史』を共訳し、関西大学出版部から刊行してもらいましたが、文芸作品と検閲という観点で具体的な資料にあたり、ドイツ文学史における民族や人種の問題について研究を深めたいと考えています。

平田重和(文学部教授)

 数年前に当人権間題研究室の研究員に選出されたことがあった。その時は色々な事情があって女性問題研究班に所属していた。当時、すでに退職され現在京都華頂短期大学の学長になっておられる山村嘉己名誉教授の推薦と強烈な刺激があってのことだったと回顧している。その時の自己推薦文を読み返してみると、フランス文学を女性の立場から読み返してみるとどんなことになるか、希有壮大なことを書いていて誠にお恥ずかしい次第である。辞めるときもこれまた色々な事情があって辞めたのだが、人権問題研究室在職中にどれほどのことをしたか反省してみると、今度はパートが違うものの大変不安を覚えずにはおれない。しかし、退職されて名誉教授になられているものの小川悟先生の強力な支援がある ということなので人種・民族問題研究班に入れてもらうことになった。民族問題となると在日韓国人・中国人の問題が身近な問題としてあることはいうまでもないが、冷戦後世界各国で民族問題による過酷・熾烈な激戦が行われていることは周知のところである。文学部内の副専攻科目「ヨ−ロッパ文化論」を担当することもあってグローバルな観点からこの問題を考えることができれば幸いと考えている次第である。よろしくお願いします。

三浦敏弘(文学部助教授)

 1997年に、関西大学文学部に移籍してまいりました。前大学での研究分野は、もっぱら運動生理学でした。研究内容は、Rat(ネズミ)を固定解剖し、脳に電極を装着し麻酔下の覚醒時の脳電位を記録するなどが主な実験でありました。正直言いまして、決して楽しい作業ではなく、肉体作業に加え、精神的にも暗い日々の連続でした。本来、人を教育していたつもりでしたが、私の目は、いつの間にかミクロ、マクロの世界へ向けられていました。いつしか疑問が襲ってきました。これらの実験が最終的には人の役に立ち、もちろん学生諸君にフィードバックされ役に立つと理解していますが、しかし反面、動物を最終的には安楽死させなければならない。幼いときから動物が大好きな私には、非常に辛い実験の日々でありました。1998年9月、クロアチアに生理人類学会の帰りドイツのケルン大学から夜行でベルリン、ライフチヒ大学に立ち寄りました。旧ドイツ時代には、メダル量産体制にあった体育大学も今では、一般総合大学として変容しておりました。この大学の特徴として身障者に対するケアやリハビリテイションを担当する学生達の養成の場として確固たる位置を占めていました。カリキュラムの素晴らしさ、実習を見学する内に、実に楽しそうな笑顔に感動が込み上げてきました。健康的な学生達や実験動物ばかり見てきた私にとって新たな刺激が芽生えたような気がいたしました。障害を有する児童にスポーツを取り入れた指導者養成や研究機関としての大学は我が国には現在無に等しい。ここでのこの感動というものは、私個人にとって生涯を通しての重要な課題であると思います。私の専門的研究分野からかけ離れた存在ではあるが、自己啓発と兼ねて人権研究に取り組んでいきたい。 

伊藤健市(商学部教授)

 2年前(1998年4月)に、大阪産業大学経営学部より関西大学商学部に移って参りました。商学部では、企業・組織のなかの「ヒト」の問題を扱う「経営労務論」という講座を担当しております。最近、この講座にかかる話題では事欠きません。年功主義と終身雇用慣行の崩壊が叫ばれ、リストラや派遣労働に代表される「雇用の流動化」が世間の注目を集めています。なかでも、不況下で雇用者総数が削減され、正規社員もアウトソーシングされる状況下で、そのしわ寄せが障害者に及んでいないかどうかが気がかりです。
 私は、1歳半で当時流行していた小児麻痺に罹り、現在も左足に後遺症をもつ身体障害者(障害者等級3級)で障害者問題はすなわち自分自身の問題でもあります。
 先年度までの全学の自己点検.評価委員会委員としての活動のなかで、関西大学に人権問題研究室があり、そこで活発な研究がなされていることを知りました。さらに、研究室に障害者問題を扱う研究班があることも知り、今年度よりそこに参加させていただけることになりました。
 自分の研究テーマとして労務論を選んだのも、いつの日か障害者の雇用問題を研究したいという目的をもっていたからであり、ようやくそのチャンスを手にし、研究の緒につけた感がいたしております。まずは、諸先生方に教えを受けながら、障害者の雇用問題として、最近流行のSOHOという労働・雇用形態と障害者雇用の関係を実態調査を行いながら明らかにしてゆきたいと思っております。 

森 健一(工学部教授)

 私の専門領域は工学と経営学にまたがっており少しファジィですが、全般的に見れば経営工学という範疇に含まれます。研究室の名祢は生産管理学としておりますが、生産はもちろん企業経営管理にかかわる種々の問題を研究テーマとしております。
 そもそも、自分の育ってきた環境を考えてみますと、そこには常に身近に自然がありました。私の小学校の校歌には、葛城の峰、茅滞の海、羽倉の磯などの地名が歌われています。私は子供の頃からこの様に優れた自然環境の中にあり、その中ではぐぐまれたといえます。しかし、ある時期からこの環境は変わり始め、産業開発という美名のもとに破壊され続けたのであります。
 それかあらぬか、現在、産業界ではISO14000という環境保護の観点からの基準が設定され、その認証を得ることが一つの目的となっています。ただ、その目的を推進する一つの動機がやはりビジネスをスムーズに進めるためという不純なものがあります。しかし、ごみのリサイクルや製品のLCA(ライフサイクルアセスメント)などの問題を解決し、自然遺産を後の世代に残すためには重要な活動であります。もとの種は海外よりの圧力すなわち外庄にお されての展開ということになりますが、基本的にはわれわれが考え解決すべき問題でしょう。
 私はこの時期に、はじめて自然環境問題が品質管理に組込まれてきたということには興味をおぼえます。しばらく前に問題となり立法化された製造物責任問題(PL問題)とならんで、従来は企業の内部での問題であった品質の考えが、社会的なものに拡大されてきたと考えられます。そして、そこでの品質とは製品の品質にとどまらず、企業の質、責任に及ぶものでしょう。これらの問題を一括して社会的品質管理として、幅広い研究を行ないたいと考えています。また、自然と親しみ、その保護を考えるこ ともおおいにやって行きたいとおもいます。
 

熊谷明泰(外国語教育研究機構教授)

 昨年、文学部に赴任し、今年度から外国語教育研究機構に移籍しました。私は朝鮮語研究においても、とりわけ南北朝鮮の言語問題や、植民地時代における朝鮮語と日本語の言語接触の問題に関心を抱いてきました。これまで南北統一に向けてさまざまな努力が不断になされて来ましたが、今後急展開が予想される朝鮮半島の分断と統一をめぐって生起する諸問題を言語の側面から見つめていきたいと考えています。今年度から人種・民族問題研究班の一員として研究できる機会を与えられましたが、今後とも朝鮮語を取り巻く社会的・歴史的諸問題についての考察を進めたく思います。
 ところで、関西地方は在日朝鮮人が最も多く暮らしている地域で、本学にも数多くの在日朝鮮人学生が在籍しています。「人権大学」として歩んできた本学であるだけに、今後ともこれらの学生たちが民族としての誇りを持って生きていける学内環境をさらに整備していくことも、引き続き追求していかなければならない重要な課題でしょう。何をどうすべきかという原点から考えながら、微力ながら努力していきたく思っています。
 これまで朝鮮語の世界に関わってきて思うことは、日本人より、むしろ韓国の友人たちとの方が良く心が通じ合う場面が多くあったのではないかということです。先日、金英達先生の訃報に接しましたが、私と同い年でもある先生とこれから共同で研究を始めようとしていた矢先のことでもあり、金先生から教わることができたであろう多くのことを思うとき、まことに残念でなりません。謹んで哀悼の意を表します。
  

小川悟(委嘱研究員)(執筆宇佐美幸彦(文学部教授))

 小川氏は、本年三月末まで当研究室で、人種・民族研究班の幹事であった。三月末に、彼は名誉教授となって退職したので、今回は委嘱研究員の身分で再び研究活動に従事することになったのである。彼は本研究室の室長を一期務めたが、彼の専門分野における研究は十分注目に値するものであったし、今もそうである。彼の専門分野はシンティとロマの歴史と現状である。彼は人種・民族研究班の研究領域を比較文化科学的領域にまで拡大し、従来の少数民族問題に加えてアイヌと沖縄問題を研究の射程に入れた。
 彼は、人種・民族研究の活動を国際的な領域で推進させようと努力している。人種・民族問題はすぐれて国際的であるとは、彼の日頃の主張でもある。そして彼の研究活動によって、本研究室の名前は、いささかヨーロッパ、とりわけドイツにおいて有名となった。日本における人権間題や文化問題が主流になることが多いのは、ドイツの研究者が日本のこれらの問題について知ろうとする意欲の結果でもある。
ミユンヘンのまちかどで、小川悟、梁永厚等一行
ミユンヘンのまちかどで、小川悟、梁永厚等一行
彼の研究は、先にも述べたようにシンティとロマの歴史的変遷と現在の状況に基づいているが、目下のところは「第三帝国時代」、即ちナチス時代のシンティとロマ状況に精力を向けている。人種政策を無視しては語れないこの時代の本質を、彼はシンティとロマの迫害という事実によって明らかにしようとしている。その成果が待たれる 次第である。
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書 評

『明治維新と京都 公家社会の解体』 小林 丈広 著
『明治維新と京都 公家社会の解体』
(臨川書店、2000年4月刊)


藤原有和(委嘱研究員)



 本書の第一の特色は、公家社会の中でも、けっして身分の高くない人物たちを通して、明治維新の実像を明らかにしたことである。血統や家柄で細かく序列化された閉鎖的な公家社会の底辺に生まれた人たちが、明治初期「京都」の近代化の担い手となったことは、興味深い。
 まず本書の構成を紹介しよう。
序章 禁門の変とどんどん焼け
第一章 幕末の改変と公家社会
 一、京都の尊王攘夷運動
 二、王政復古と東京遷都
 三、ある地下官人の明治維新
第二章 近代化をめぐる葛藤
 一、京都博覧会の意義
 二、官家士族の救済
 三、保勝会と文化財保護
第三章 「京都」の再構築
 一、疏水と博覧会
 二、京都の統合と歴史の編纂
 安政5年(1858)、アメリカとの通商条約調印の勅許をめぐって、朝廷は、一挙に政治的発言力をもつようになる。この時、岩倉具視は朝廷の権威を回復する立場から、関白九条尚忠の幕府への一切委任案に対して猛然と反対運動を展開している。ここで注目されるのは、公卿(堂上)のみならず身分の高くない非蔵人55名、地下官人97名が集団で反対運動に参加している点である。
 非蔵人とは、社家出身で御所に勤務した人びと。その位階は六位に準じた。そのうちの一人、松尾相永(彼が住んでいた上京の「柳の図子」は、各地の志士の密会所になっていた)等の人物組織に関する研究は、幕末の宮廷政治の底辺を明らかにするうえにも重要な意味をもっている(大久保利謙『岩倉具視』)。本書は明治初期までその視野を拡大し、地下官人の西尾為忠や倒幕派有力商人熊谷直孝等の業績を発掘することによって、この方面の研究を大きく進展させたといえる。
 西尾為忠の最初の官位は、従六位下で、初め縫殿寮に出仕する。その後、岩倉の側近として国政に関する文書の起草に関わり、戊辰戦争の際は、東山道鎮撫軍において大役(監軍)を務めている。明治2年(1869)7月、旧制度による官職が廃止され、御所の官人は失職する。その時、西尾は京都の留守官(天皇の東京滞在に伴い、留守を預かる役所)に登用される。その後、留守官の解体により、京都府官吏に転身し、開明的政策の実現に協力する。晩年は宮内省に出仕している。
 新政府により華族に編入された公卿とは異なり、非蔵人、諸官人、社家・門跡寺院の家来の多くは士族(官家士族)に編入された。公卿の侍(一代限りの奉公人)で、戊辰戦争の最中イギリスに留学した尾崎三良は、帰国後、万国公法や英国憲法史など新知識の啓蒙につとめたり、生活に困った官家士族の救済事業に取り組んでいる。彼は、士族ではなく平民籍に帰属したという。
 公家社会の底辺―――庶民との境界線上の地位にあった無名ともいえる人びとこそ、変革期を主体的に生きた人びとであったということに深い感動を覚える。
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編 集 後 記

吉田徳夫(法学部教授)

 今年は二年毎の研究員の更新を経て、新たに研究員をお迎えした。また定年をきっかけに研究室を去られた諸先生も居られるが、小川悟先生には改めて委嘱研究員を引き受けていただき再度の御活躍をお願いしたい。その結果と言うわけではないが、従来は固定的だった研究室のメンバーにも陣容の変化が生まれてきた。新規にお迎えした諸研究員には新たな研究室作りが課題となると思われる。来年度は、このスタッフで人権問題に関する国際シンポジウムが企画されており、当研究室の益々の発展が期待される。
 在りし日の金英達委嘱研究員<br>(昨夏8月の熊本県人吉市に<br>おける明治期の朝鮮人強制<br>労働者取材旅行の折)
 在りし日の金英達委嘱研究員(昨夏8月の熊本県人吉市における明治期の朝鮮人強制
労働者取材旅行の折)
 最後に残念だが人種・民族問題研究班の委嘱研究員である金英達先生が不慮の死をとげられ た。先生の人柄、学識を知る者にとっては痛恨の至りである。ご冥福を祈るばかりである。

 
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