物語には、小説であろうと映画であろうと、日本語で書かれていようと英語で書かれていようと、同じ事柄を伝えることができる要素と、同じ物語でも、小説で表現されたり映画で表現されたり、日本語で書かれたり英語で書かれたりするように、媒体が異なる要素とがある。前者を物語内容といい後者を物語言説という。
「オオカミ少年」の物語内容は映画でも芝居でもパントマイムでも伝えることができるし、日本語でも英語でも朝鮮語でも表現することができる。しかし、英語で表現された「オオカミ少年」と日本語で書かれた「オオカミ少年」とでは物語内容は同じでも物語言説が異なる。そこで、同じ「オオカミ少年」という物語内容を、異なる物語言説で読むという事態が生じる。そのとき、物語のどの部分は言説を超えて伝わり、どの部分は伝わらないのかを考えるのが物語論である。それは同時に、外国語を学ぶということそのものである。どこの国の人間であろうと、どのような文化のもとで生活していようと、同じ人間である限り私たちは共通の物語内容を持っているはずである。しかし、生まれ育った環境によって使用する言語が違うため、共通の物語内容を異なる物語言説で表現しなければならない。いうまでもなく、それは外国語習得そのものであり、さらにいえば、それは言語の本質そのものである。なぜなら、言語が表現するものは、もともとは言語ではないからである。言語とは、表現するもの(言説)と表現されるもの(内容)から構成される記号である。
物語を読むということは、外国語を習得するということであり、言語を考えることなのである。
しかしそれはまた、生きるということでもある。「うそをつくのはよくないことだ」という言明を物語だという人はいないであろう。しかし、多くの人はイソップ物語の「オオカミ少年」を物語だという。そして「オオカミ少年」を読むことによって、人は「うそをつくのはよくないことだ」という言明の意味を理解する。つまり、私たちが持つ価値観の多くは、言明や命題を理解することによって獲得されるのではなく、物語を読むことによって獲得されるのである。物語がなければ、人は自らの体験を言語化し理解し記憶することさえできないであろう。
物語を読むということは、生きるということなのである。
英語が使えるようになることそれ自体を目標とするのではなく、英語を使って何がしたいのかを具体的に思い描きながら四年間を過ごしてほしい。