コラム

第15回 2014/5/20

石碑(いしぶみ)が語る「地域へのまなざし」

関西大学特別任用研究員
 櫻木 潤

写真1

 日本橋北詰に建つ道頓・道卜の紀功碑(2013年8月撮影)

 御堂筋から道頓堀の喧騒を抜けて堺筋に至ると、日本橋の北詰に一基の石碑が聳えている。碑の正面には「贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑」とある。ここには、かつて道頓堀の開発に関わった安井家の屋敷があったといわれ、今からちょうど100年前の大正3年(1914)11月に道頓・道卜が従五位を追贈されたことを機に、長堀橋筋二丁目から高津町壹番町に至る近在の有志によって建てられたものである。裏面の撰文は、大阪研究にも多くの足跡を残した朝日新聞記者の西村時彦(天囚)。書は、同じく朝日新聞記者で書家としても活躍した磯野惟秋(秋渚)である。かつて大阪文化の発信地であった道頓堀の生みの親を讃えるにふさわしい面々による建碑である。

 羽賀祥二氏の研究によると、19世紀から20世紀初頭には、日本各地の地域社会で、古きものの痕跡を探求し、それを考証し、保存していこうという動きがみられ、記念碑が建立されたり、地誌類が編纂されたという(『史蹟論』)。近世大坂を代表する地誌『摂津名所図会』・『河内名所図会』・『和泉名所図会』も、ちょうどその頃に出版されたものであることからみれば、こうした気運の中で生みだされた時代の産物ととらえることもできる。そこで試みに、現在の大阪府域にあたる地域で、三書に収められている石碑を数えると115点。大半は、地名の由来や地域の偉人に関するものなど、その地域に限定されるものであるが、摂河泉の各地域に共通してみられるものも浮かび上がってくる。それらを大きくグループ分けしてみると、①楠木正成などの南朝に関するもの、②大坂の陣に関するもの、③和歌に関するもの、④松尾芭蕉など俳諧に関するもの、となる。摂河泉の名所図会が地域を顕彰するという流れの中で編まれたとすれば、①~④は当時の大坂の「歴史性」や「地域性」を表しているということができるだろう。近代の大阪では、楠公贔屓と豊太閤顕彰が盛り上がるという(藪田貫『武士の町大坂』)。名所図会に収められた石碑グループの①・②にあたることから、そのムードは19世紀に遡るといえそうである。そう考えると、道端に何気なく建っている石碑は、そこに暮らす人びとの「地域へのまなざし」を感じることができる貴重な文化遺産ということができるのである。

写真2

 相合橋北詰の食満南北句碑

 日本橋北詰から宗右衛門町の通りをぶらぶらと西に向かうと、相合橋の北詰にひっそりと一基の石碑。「盛り場をむかしに戻す はしひとつ」。食満南北自筆の句碑である。裏面の「句碑建立発起人」には、発起人代表である菅楯彦のほか、中村雁治郎・片岡仁左衛門・長谷川一夫といった名だたる役者や長谷川幸延・牧村史陽といった面々が名を連ねている。もともと昭和36年(1961)に太左衛門橋の北詰に建てられた碑は、芝居町として賑わった道頓堀ゆかりの人びとのアイデンティティを語っているようである。

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