コラム

第7回 2012/9/7

山田伸吉と鳥海青児、そして関西大学

関西大学文学部教授/センター研究員
長谷 洋一

山田伸吉画「道頓堀今昔」

山田伸吉画「道頓堀今昔」

  大阪都市遺産研究センターの会議室には、山田伸吉が描いた「道頓堀今昔」(複製)が掲げられている。太左衛門橋から南を臨み手前には道頓堀川に浮かぶ屋形船や芝居茶屋が描かれ、家並の奥に朝日座・角座・中座の屋根がそびえたつ風景に大阪を代表する劇作家長谷川幸延が賛を寄せた大阪情緒あふれる作品である。

 戦前、山田伸吉は大阪松竹宣伝部に勤務し、舞台の背景画や舞台衣装のデザインなどのほか、来客に配布された小冊子「SHOUCHIKUZA NEWS」の装丁やポスター制作を手掛けており、戦前のグラフィックデザイナーとして紹介されている。ところが、最近になって山田の意外な一面が見えてきたのである。

 某日、センター所蔵の山田伸吉関係資料を整理していると一葉の白黒写真がでてきた。僧坊を背景に寺の境内を歩く二人の男。裏面をみると「唐招提寺に於ける 鳥海青児氏 山田伸吉」とある。白い帽子を被ったのが山田伸吉、カメラを片手に持つのが鳥海青児である。

山田伸吉と鳥海青児

山田伸吉と鳥海青児

 鳥海青児は単純化されたフォルムと重厚な質感で独自の画境を切り開いた洋画家として知られている。鳥海は1920年関西大学経済学部予科に入学、1926年に関西大学経済学部を卒業した関大OBである。在学中に第2回春陽会展に『洋女を配する図』・『平塚風景』を応募、初入選し、以後1930年まで連続入選して画壇デビューを果たした。

 もっとも、在学中の鳥海は授業へあまり出席せず絵ばかり描いていたようである。関西大学学歌の作詞者でもある服部嘉香教授が当時を振り返ってこう書いている。「(鳥海青児が)学生服の上に黒っぽい上っ張りを着、パレット、カンヴァスをもったまま時々訪ねて来る。パレットの上は絵の具を無闇に塗りたくってきたなくしており、上っ張りには、カンヴァスと間違えたかとおもうほど絵の具をこてこて塗って猛烈によごしている。『先生!』といってはいって来るが、ドアや、カーテンや、卓上のものなどを汚しはせぬかと思う時もあった」(服部嘉香「音楽と鳥海氏」『魔法の会』1964年3月)

 実は山田伸吉も「山田岑吉」の名で1937年第15回春陽会に《T画伯の像》・《T夫人の像》を初出品、入選している。以後は、本名で1942年第20回春陽会まで連続出品しており、その後も新文展、独立美術協会展、二科展に出品している。山田伸吉は新進の洋画家だったのだ。山田が初入選した第15回春陽会は「同(鳥海青児)氏の作品にみる単純な熱情的表現には沢山の追随者があって、春陽会に新たな空気を齎せている」(栗原信「春陽会展評」『アトリエ』1937年5月号)とされ、復刻版カタログに掲載された《T画伯の像》をみると、確かに鳥海青児の作品との共通点が見出される。

 写真をながめながら、山田伸吉関係資料がセンター所蔵となったのも何かしらの縁に拠るものであると思うとともに初出品の《T画伯の像》のモデルは鳥海青児ではないかと想像するが、いまのところ作品の行方はようとして知れない。

  

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