コラム

第4回 2011/10/18

2011秋の国際シンポジウムに寄せて

関西大学文学部教授/センターサブリーダー
大谷 渡

ohya

 街の中の丘には、70年の歳月が育てた樹木が繁っていた。石段を上ると、蒼空を突いて立つ中山記念塔が、緑濃い枝の間に見え隠れした。かつては記念塔の中ほどに、12の光線をかたどった白日の模様がはめ込まれていたが、今は無い。辛亥革命100年にあたる今年は、日本・台湾・中国において、孫文(号・中山)を記念する催しや報道が多い。
 記念塔を背にして、日赤の制服姿で立つ看護婦の写真は、広東占領下の昭和16年に撮られたものである。夏の広州は湿度が高い。写真を仕舞い、あふれ出る汗を拭きながら坂を下った。公園の下で待っていた車に乗り込み、広州市の北にある清遠市に向かう。高速道路が亜熱帯の山々を突き抜ける。広大なこの大陸に、日本軍が展開して戦争を続けたことには、今更ながら唖然とせざるをえなかった。
 車の前方に、銀盞拗(ぎんさんよう)温泉の看板が迫ってくる。思わずシャッターを切る。戦争末期の昭和20年に、広東第一陸軍病院(波第8600部隊)が米軍の空襲を避けて、銀盞拗・源潭墟(げんたんきょ)・東砂・紹関などに分散疎開した。大阪日赤の看護婦たちと共に、内科病棟に勤務した台湾篤志看護助手游彩月(ゆうさいげつ)さんは、軍医や婦長の指揮下で傷病兵をつれて源潭墟に疎開した。若い看護婦たちが、非番の日に山あいの川で魚を捕り、浅瀬を掘って温泉を作ったことを、游さんは大阪弁を交えて語ってくれた。
 敗戦後、台湾篤志看護助手たちは中国軍に引き渡され、厳しい生活を強いられた。大阪日赤の救護班と共に勤務した篤志看護助手を代表して、「台湾一陸会」副会長の葉蔣梅さんが、「2011大阪都市遺産 秋の国際シンポジウム」で特別講演を行った。葉蔣梅さんは、戦後間もなく編纂された部隊史『魚眼』から、三首の短歌を引用して講演を締めくくった。「別れても別れてもなお看護助手この名尊く永久にかゞやけり」「別れゆく二百の友よそのゆくて幸多かれとただ祈りつつ」「姉上と慕いよる友の今はなく木枯し寒く旅衣うつ」。
 葉蔣梅さんが台南第二高等女学校に入学した昭和15年に、大阪日赤の看護婦養成所の3年生だった安藤美代子は、「朝夕に笑の声の絶え間なき馴れ住める部屋は親しも」「右腕に弾丸受けし兵の書く文字はいたく右下がりなり」「黄河の水にとりかこまれし様をいふ兵士は大腿骨折に臥す」などの短歌を残している。「馴れ住める部屋」とは、大阪日赤救護看護婦養成所の修悳(しゅうとく)寮の部屋を指している。昭和初期に東洋一といわれた最先端病院の看護学校に、戦中に学んだ安藤美代子は、翌16年卒業間もなく召集され、同年秋に満22歳で殉職した。
 短歌が伝える人の心の息づかいは、他では得られない歴史の真実をしみじみと感じさせる。日本の心の文化とその遺産に目をすえながら、アジアや欧米とつなぐ広い視野をもって、大阪都市遺産の検証を続けていきたいと思う。

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