Professor's Columns

第82回2015年04月22日

社会学の価値

社会学専攻  宇城 輝人

 昨年は「ヘイトスピーチHate Speech」という言葉がしばしば新聞テレビで取り上げられ、にわかに脚光を浴びた。この言葉は「憎悪表現」と日本語にされることがあるけれど、専門家のあいだでは「ヘイト」を「憎悪」と訳すのは不適切だと言われている。

 ヘイトスピーチは「憎い(嫌い)」という感情や心理的な問題の表出を意味しない。「人種、民族、宗教、性的志向、障害などにかかわる差別を煽り立て、個人または集団を萎縮させ攻撃すること」を意味する。その言論を行うことにより社会構造や歴史的文脈をてこにして差別や暴力を喚起することが問題なのである。そういう意味で「差別扇動表現」と日本語にするのがよいと考えられる。

 もう何年も前から、在日コリアン(だけではないが)にたいするヘイトスピーチを拡声器を使って白昼の街頭に撒き散らす極右レイシスト集団が、日本各地で活発に活動している。新聞テレビに取り上げられたその姿を見た人も少なくないだろう。言論の自由にかかわる難しい問題があるけれども、ヘイトスピーチを規制する立法ないし行政措置がどのように可能か議論が始まっている。

 しかし、忘れてならないのは、差別者たちの言動そのものにまっすぐにマスメディアや世間の関心が向かったのではないということである。「カウンター」と呼ばれる人びとの活動が存在しなければ、もしかしたら今よりももっと深刻なヘイトが撒き散らされることに私たち日本人のマジョリティは無関心だったかもしれない。

 カウンターとは、レイシストの街宣やデモの現場で、ヘイトスピーチが公共空間に響き渡り、行き交う群衆のなかに拡散するのを食い止める活動のことである。参加者は老若男女いろいろで、基本的に互いに見知らぬ者どうしの組織されざる集団である。

 演説者に正面切って嘘や捏造をただし反論する人がいる。レイシストは帰れ!と一斉に野次りたおす。その迫力に怯んでレイシストは言い淀み絶句する。ヘイトスピーチはカウンターの声に埋もれる。抗議のプラカードや横断幕を彼らに向けて掲げる人がいる。彼らの姿は通行人から遮断される。道行く人びとには何が起きているか説明する人がいる。外国人観光客はだいたいカウンターに共感を示してくれる。

 私はそれをYouTubeで最初に見て驚いたのだが、まさに「攻撃的な非暴力」と呼ぶべき見事に身体化された社会運動がそこにあると思った。なぜなら、ヘイトスピーチの行われる空間――公共空間――に身体的に介入することで、ヘイトを流通させる空間ではなくヘイトを問題化する空間を作り出すのに成功していたからである。

 それは一見したところ「騒動」あるいは「迷惑」を起こしているように見える。最初のカウンター活動「レイシストをしばき隊」(2013年2月9日)の姿を今でもYouTubeで見ることができるが(https://www.youtube.com/watch?v=MODVVlEQIWU)、レイシストたちの街宣を「警備」する大勢の警察官とのもみ合いなど荒々しい場面の連続である。

 問題は、この「騒動」が何なのかである。騒動は、問題の所在を物理空間においても言論空間においても可視化した。ウォッチャーや専門家の範囲をこえて関心が広がり行政や政治を動かしつつあるのは、ヘイト問題が騒動をつうじてメディア現象になったことが大きかっただろう(もっともカウンターは最初からネットを拠点とするメディア現象であった)。

 それだけにとどまらない。私がこのかん実感したのは、平等な社会空間を再建するには、身体をともなう介入が不可欠だということである。別の表現をすれば、都市空間を物理的また社会的に対等で自由な交流の場として維持していくためには、防御(安心)のための壁、連帯(冒険)のための扉として機能する人間の集団(何かの団体ということではなく)が必要になるということを再確認させられた。言論の自由を守るためには物言わぬ身体が必要なのだ。

 怠け者の私はカウンターとしてそれほど熱心ではない。それでも、そのなかに何度か身をおくことで理解したのは、「公平中立」「自由」という言論や報道、学術研究の基本原則が、対象から距離をとる態度や両論併記ではうまく実現できないということである。

 少し奇妙に思われるかもしれないが、カウンターは私にとって社会学的実践であるように感じられる。社会学はもちろん学術的言説として価値中立であるわけだが、近代性、個人、連帯といった価値を内包する「社会的なもの」のひとつの環として生まれたのであり、その足場に立脚せずに社会学は社会学たりえないのではないだろうか。そのことは社会学が近代性や個人主義、社会連帯を批判的に分析対象としうることと矛盾しない。

 レイシズムの興隆は全世界的な現象である。文化多元主義を逆手に取った差異主義的な分断、隔離、異質性嫌悪(ヘテロフォビア)。そうした悪意を肯定するシニシズムにヨーロッパは覆われつつあるように見える。私たちの社会もそのようなシニシズムと無縁ではない。同化主義傾向の強い日本社会では、同化を要求しながら拒絶するダブルバインドを強化するだろう。現象の全体を正しく社会学的に認識するためには、社会学の価値にコミットする必要があるように、私は考えている。

社会学専攻

宇城 輝人
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