Professor's Columns

第21回2005年9月20日

芭蕉と共感覚

産業心理学専攻  雨宮 俊彦 教授

 もうだいぶ昔のことになってしまったが、大学時代、俳句のゼミに参加したことがある。毎週、俳句を作ってきて合評会をやり、それで単位になる。先生の人柄もあって楽しい授業だった。

 枯れ草の香や一色に冬の原

 まだクロ(黒い色の犬なのでそうつけた。)が生きていたころで、実家に帰省すると、近くの河原や野原につれてよく散歩に出た(散歩時間の近くになると尻尾を振って、いつも大はしゃぎだった。)。そんな大学時代の冬休み、クロをつれて散歩している時に、俳句のゼミの課題としてつくったものだ。枯れ草と冬が重なっているが、河原のまわりの野原があたり一面枯れ草色で、また枯れ草の香りがしたので、実感の句である。香と一色が、共感覚っぽいのが、ポイントだと思う。芭蕉の句を下敷きにしたような気がするのだが、自分でもはっきりしない。

 共感覚は、シートウィックの「共感覚者の驚くべき日常—形を味わう人、色を聴く人」草思社などがきっかけで、日本でも興味をもたれるようになった。音や文字に特定の色を感じたり、味の形を感ずるなど、異なった感覚属性の間に具体的な連合が、比喩や単なる印象としてではなく存在し、一方の感覚の刺激でもう一方の感覚が、同時に生じてしまうのが共感覚者である。共感覚者の頻度については色々な調査があるが、2万に一人くらいの希な存在である。

 Harrison、J. (2001)"Synaesthesia:the strangest thing." Oxford University Press.Harrisonの本では、共感覚か比喩かというタイトルの章で、ボードレール、ランボー、スクリャ−ビン、カンディンスキーなどと並んで、我が芭蕉がとりあげられている。鐘消えての句が上げられているが、英訳がわかりやすいので一緒にしめす。

 鐘消えて花の香は撞く夕哉
 As the bell tone fades、
 Blossom scents take up the ringing、
 Evening shade.

 ここでは、消えゆく鐘の音(聴覚)が花の香(嗅覚)とまじりつつ、夕暮れ(視覚)に広がっていく様子が描かれている。Harrisonは、共感覚者では一方の感覚の刺激でもう一方の感覚を同時に感じる事を指摘し、この句で表現されている、鐘のringingから花の香のringingへの遷移は、共感覚者の経験の描写ではなく(他の証拠がないと芭蕉自身が共感覚者でないという結論は出せないがと断りつつ)、花の香のringingは比喩的な表現だと結論している。この結論は妥当であると思う。むしろ興味深いのは、西欧人の眼からみて、芭蕉が共感覚者かと真剣に問題にしている点である。

 芭蕉の共感覚的な俳句としては、「海暮れて鴨の声ほのかに白し」が有名である。Harrisonの本では「ありがたや雪をかをらす南谷」もとりあげられている。小西甚一(1998)「日本文藝の詩学」みすず書房によると、西欧は共感覚的な表現が用いられるようになったのは、ロマン派以降で、19世紀以前にはほとんど見られなかったらしい。そいういう点からすると、17世紀後半における芭蕉の共感覚的な俳句はかなり着目に値する現象らしい。

 芭蕉が共感覚者でなかったとすると、芭蕉はなぜ共感覚的な表現を用いるようになったのか?小西氏は、多くの文献を参照して禅林詩の影響を指摘している。禅では、概念やシンボリズムによってではなく、具体的身体的な経験そのものに密着し、これを組み替えることによる、あらたな視点の獲得、悟脱を目指す。禅林詩における共感覚表現技法はこうした背景から生まれたものである。もちろん芭蕉の俳句は仏教的思想の表現ではないが、芭蕉の俳句における共感覚的表現などに、感覚への密着を通じ、一種の日常を越えた視点を表現しようとしたものがあるのは、禅の影響によるものだろう。有名な「静けさや岩にしみいる蝉の声」などの句は、共感覚表現とは言えないだろうが、声が岩にしみいるという比喩、声の静けさという撞着語法がつかわれ、より禅語録に近い表現になっている。鐘消えての句でも、「花の香は撞く」という奇妙な表現は、比喩的な解釈も可能だが、「青山常運歩(青山は常に運歩する)」などの、禅語録における、常識的な概念図式の脱臼を行うような意図的なイロジカルな表現と近いものがあるかもしれない。

産業心理学専攻

雨宮 俊彦 教授
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