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    願宗寺表門、関西法律学校は大阪西区京町堀の願宗寺を仮校舎として開校されました。

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    ボアソナード博士
    (1825~1910)

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    児島惟謙名誉校員
    こじま・これかた
    (1837~1908)

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    昭和23年10月の大学祭で「関大ルネッサンス」「関大アカデミア」を呼びかける岩崎卯一学長

1886(明治19)年11月、大阪・西区京町堀に一つの私立学校が誕生しました。願宗寺という寺を借りて、夜間、青年たちに法律学を教授したこの学校の名は、関西法律学校。関西大学法学部の前身です。関西法律学校は、関西で初めての本格的な法律教育機関。司法省顧問ボアソナード博士に教えを受けた井上操、小倉久ら大阪在住の現職裁判官と、自由民権運動家の吉田一士との協力によって創立されました。

夕日の沈む頃から、向学心に燃える多数の青年がおしかけ、薄暗いランプの下で、熱心な講師たちによる真剣な授業が続けられました。講師たちは、法律が市民のものであり、市民は法律によって、みずからを守るべきである、と説きました。ボアソナード博士が、司法省法学校で、「日本の人民は、権利の観念に乏しい。それゆえ、日本では権利の観念を鼓舞することが急務である。諸君は裁判官や弁護士となるよりも、まず教師となって法学の普及に努めるべきではないか。」と講じたことに感動した裁判官たちが、無報酬で行っていた講義での真摯な熱意は、現在の関西大学法学部の講義にも受け継がれています。また現職裁判官たちが、このような講義を行うには、彼らの上司であった大阪控訴院長児島惟謙の賛助が不可欠でした。のちに大審院長となり、大津事件を契機とする「司法権の独立」問題に深くかかわった児島惟謙の法学教育に対する姿勢と人となりが伺われます。

1922(大正11)年に大学令による関西大学の認可を受けたときには、法律学科と政治学科からなる法学部として出発しました。その後、文学科を包合して法文学部となった時期もありましたが、1948(昭和23)年、新制大学に移行した際に法学部となり、今日にいたっています。

1947(昭和22)年、岩崎卯一学長が唱えた「関大ルネッサンス」は学問の自由、真理の探究への新たなスタートとなりました。法学部の研究・教育とそれを支える専任スタッフは、その後充実の一途をたどり、いまでは「関関同立」の中でも最大級規模の法学部となりました。

1993(平成5)年、国際化や教育の質的向上といった社会からの要望に答えるべく、カリキュラムの大幅改定を行い、より高い次元での研究・教育を可能にしました。しかし、すべての問題が解決されたわけではありません。さらに高い次元での法学教育を行うには、未解決の問題がまだまだ残されています。

2008(平成20)年、法学政治学の両分野に精通し、現代の法化社会を生きる力量をもった人材を輩出することを目的として、法律学科と政治学科を統合し、法学政治学科を新設しました。複雑化、国際化が進み、変化の激しい現代社会において、すべての学生が法学政治学の両分野においてその基礎を修得し、それぞれの志向や進路に向けた段階的で複合的な学習ができるよう新しいカリキュラムを導入しました。

設立時からの真摯な熱意を受け継ぐ関西大学法学部は、より効果的で充実した法学教育を行うべく、いまも不断の努力を続けています。130年の歴史に育まれ、常に取られてきたこの姿勢こそが、関西大学法学部を進化させる原動力であると言えるでしょう。